「伊本翔一朗のカタチ」
ある日、柴田さんが326くんの作品と出会った。彼の世界に新鮮な驚きを感じた。と同時に、自分の作品を“誰かのために書き残していきたい”そう思った。そのときが伊本翔一朗の誕生日であった。本名ではなく違う名前で活動したかった。そこで登場したのが「姓名判断」(安斉勝洋さん著)だった。画数、さらに語源の良い文字、大吉の語順を含んで「朗報を目指して一途に翔び続ける。」ように翔一朗さんが生まれた。でも実際には、ストリートで活動するのはやっぱり怖くて恥ずかしくて・・・そこにいるのは何もできない小さな翔一朗さんだった。そんなとき心に小さな光をさしてくれたのが軌保博光さんだった。最初はただ彼のやり方が気になってただけで、作品は「何だこれ?そのまんまじゃん。」って思う程度だった。そんな考えが一変したのは、実際に目の前で書いてもらったときだった。「あなたを見てインスピレレーションで言葉を書きます。」それが彼のスタイル。活動してみたいけど何もできずに立ち止まっている私が彼にはどのように見えたのか?「動けば動くほどやすのり(本名)となる。全力で動け。」軽く背中を押された感じだった。そのあとはもう思ったように進むだけだった。 とうとう行動する日が来た。
2000年7月15日。一宮駅で作品を並べて座ってみた。開始早々、警備員に警告を受けた。まだデビュー初日。ここであきらめずに震える気持ちを抑えつつ金山駅に行くことを決意した。ここでも開始早々、事件が起きた。なんとテレビ出演が決まったのである。結果は全く伴っていないのに運だけで受けた取材。ただ作品を認めてくれる人がいることがうれしかった。当時はまだ作品を並べて販売だけだった。シンプルなコトバなだけに反応は様々だった。じっくり作品を見て涙ぐむ人。通りすがりに「当たり前だよ。」「へたくそ。」と言いすてる人・・・。それでも少ないながらに反響は出てきた。そんなある日、目の前に一人の少女が座った。「私ってどんな人に見えますか?」いつかは来ると思っていたこの一言。実際に言われると何を書いていいのかわからなかった。ただ彼女を見ていて“何かを迷っている”そんな気がした。それを伝えた途端、涙を見せた彼女のあふれ出る悩みを聞いて初めて即興で書いたコトバ。「自分に素直に。心に素直に。思ったこと大切に。」それからである。即興詩に力を入れるようになったのは。
活動していてよく「みつをのパクリ」や「326みたい」とかいわれる。しかしその意見は否定せず続けている。影響を受けたのは事実だし「平成の相田みつを」や「名古屋の326」のような感じで心に残ればそれでうれしいから。私のコトバがあなたなりの解釈であなたの心に残ればそれでいい。結果としてあなたが私のコトバを道しるべにしてくれるのであれば私はいくらでも協力するから。ただ私は文学少年だったわけでもなく、書道を習っていたわけでもない。ただのコトバ遊び好きの字書きである。おせっかいな字書きである。
・・・今日もだれかのために自分のためにコトバを書いている。
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